「イサジ式」というフォーク・ミュージシャンのことは以前のブログに書いたことがある。あらためて紹介すると、本名を「伊佐治 勉」といい、本業のイラストレーションでは「ツトム・イサジ」を名乗っている。そのかたわらフォークシンガーとしての活動歴も長い。故・高田渡の知遇を得て、周辺のミュージシャンとも交流があったし、いまもある。ちなみに「イサジ式」という芸名の由来は、なぜか「サクマ式ドロップ」から来ているという。
アメリカン・フォークやブルースの原器を参照しながら、自分の言葉を弾き語るスタイルは、今となってはオールド・ファッションかもしれないが、我々の世代には親しいものだ。むろんイサジ式はファッションだけの人ではない。フォークがいま生きている民衆の溜息、吐息を映すものだとすれば、例えば彼なりの視点で「3.11」後の放射能汚染地区=「帰れない町」のありさまを語る語り口は、たんなる叙情とかノスタルジーとかを超えて、現代社会へのアクチュアルな問題意識があらわだ。フォークソングのある意味では原点に、忠実な歌い手ではある。
演奏合間のMCも自嘲気味の皮肉とユーモアに満ちていて、話芸としても楽しめる。一口でいえば庶民的であり、庶民の生活のしたたかさを衒うことなくさらけ出す。そう言えば伊佐治くんは、小学生のころから、人を笑わせるのが得意な奴だった。
そうなのだ。実は彼は私の小学校時代のクラスメイトなのだ。中学校、高校も同じ学校。父親同士の勤務先が同じで、福島県いわき市小名浜という海浜地区にある、同じ会社の別の社宅でそれぞれ育った。ただ、中学、高校時代はそれほど交流が深かったとはいえない。成長するにつれ、お互い、趣味・関心・志向・思考が異なっていくのは仕方がないことだ。それが大人になるということなのだから。
東京で毎年開いている、高校で特に親しかった連中との飲み会。昨年の忘年会にとあるツテで彼が初めて参加したときは、高校を出てから42年も経っていた。だが、すぐに温まる旧交もある。彼の歌のいくつかをYoutubeで聴き、小さなライブハウスで催される彼の弾き語りを追いかけるようになった。
私は何ほどのこともできなかったが、高校同期の連中の仕掛けで、12月6日に故郷のいわき市でイサジ式がライブコンサートを開くことになった。彼が今年、初めてのソロCDをリリースしたことを記念する意味もあった。
私も常磐線特急に乗って出かけた。私は18歳の高校卒業と同時に実家が宮城県多賀城市に引っ越したので、この街には親も親戚もいない。むろんいろいろ理由があって、たびたび訪れることはあるのだが、今回の訪問はまた格別な意味があった。
公的な高校同窓会というものにはほとんど顔をださないから、東京でも縁がある連中以外は、ライブ会場に集まった同期生たちの顔と名前はほとんどわからなかった。たしかに半世紀近い年月が容貌を変化させたということはある。それだけでなく、何か自分の認知能力が断絶しているようでもどかしい思いもしたのだが、やはり少年期、青春期に密に付き合っていないと、たんなる同窓生というだけでは、すぐには顔を思い出せないものだ。
かくして「フォーク者 イサジ式CD発売記念いわき漂着LIVE」は、The Queen というライブハウスに50人余の観客を集めて、そこそこ盛会だった。案の定、打ち上げは高校同窓会となり、2次会まで数え、さらに私はホテルの部屋で、ライブのプロデューサー役と動員役の一人と遅くまで酒を酌み交わした。
原発事故の復旧作業員の流入と、避難指定区域からの住民の移入で、いわき市、特にその商業中心である平の街は「活況」を呈していると聞いていたが、私が訪れた日曜の午後は人のにぎわいも少なく、駅前には北風が舞うばかりだった。こんな小さな街だったっけ。言葉は悪いがしなびれた感じが少しした。駅に着くなり駅前の空中歩廊で繰り広げられていた、YOSAKOI踊りのイベントに辟易したこともあって、久しぶりの平の街の印象はよくなかった。私はあの踊りのスタイルが苦手なのだ。
そんな寂しい心を、ライブが解きほぐしてくれた。冬の日のぬくもりのようなものを、私の心に灯してくれた。
イサジ式のギターと唄は、私の数少ない視聴体験からだけれども、この夜はよく鳴っていたように思う。鳴きすぎて、唄の途中で本人が涙声になってしまうシーンもあった。彼はそれを老人性の「感情失禁」などと茶化すのだが、故郷でのライブに彼なりの尋常ならざる想いがあって、それがふと表出したのではないかとも思うのだ。
たしかに、仕掛け人の一人が言うように、いい夜だった。再会があり、新しい出会いがあった。久しぶりに唄を感じる夜だった。
⇒ 悲しくてやりきれない(ウチナーグチ・バージョン) / 上間綾乃 - YouTube:
知りませんでした。こんな美しい人がいたんだって。
東京新聞2015/08/26夕刊によれば、「さとうきび畑」をウチナーグチに訳して歌っているという。というわけで、iTunes Storeでゲット。
日付の変わった午前2時、8月15日の神保町の居酒屋で、突然この歌が聞こえてきたのだから仕方がない。「スラバヤ通りの妹へ」:松任谷由実。
1981年のミニアルバム「水の中のAsiaへ」のA面に収められていた。アルバムは全体には80年代の海外旅行ブームを背景に、エスニックな旅情を歌ったもの。おそらくユーミン自身のアジア旅行体験が反映されているのだろう。それまでユーミンは、ブルジョワなお嬢さんが惚れた腫れたを歌っているんだけれど、その楽曲がそれまでの有象無象の歌謡曲やフォークソングをすっきり「乗り越えちゃっている」ので、もうこれはすごい人、というのが私の認識ではあった。
ところがこの歌を聴いて私はさらに驚くのである。歌詞はこうなっている。
妹みたいね15のあなた髪を束ねて前を歩いてくかごの鳩や不思議な果物に埋もれそうな朝の市場
やせた年寄りは責めるように私と日本に目をそむける
でも、”RASA…(RASA…)RASA SAYANG EH”そのつぎを教えてよ少しの英語だけがあなたとの架け橋なら淋しいから”RASA SAYANG EH”
ラッサ、ラッサ、サーヤンゲーという(当時の私には意味不明の)インドネシア語のフレーズを取り込みながら、旅愁を醸し出す旋律が印象に残る名曲だ。だが、歌詞にはさらりと聞き過ごせない、小さな棘のような言葉が含まれている。「やせた年寄りは責めるように/私と日本に目をそむける」という部分である。なぜここでいきなり「日本」が登場するのか。
旅人ユーミンの視線は、意識の程度はともあれ、アジア・太平洋戦争における日本とインドネシアの関係を捉えている。日本軍はインドネシアをオランダ植民地から解放したと、後の歴史修正主義は言い募るのだが、実際には日本軍政には光と影があった。影の部分をあげれば、防衛力強化のために多数の労働者が強制的に動員された。日本は「植民地解放」の名分で、インドネシアを戦争遂行のための橋頭堡として利用しようとした。その過程で発生したオランダ人やインドネシア人女性への戦時性暴力(慰安婦強制)の問題も忘れることはできない。
少なくともユーミンは、必ずしも日本の占領の記憶をよく思っていない街の人々の「責める」ような視線を、1981年の時点で感じ取っていた。その旅人としての鋭敏な感性には驚く。
むろん、それだけなら旅の感傷の一コマかもしれない。しかしユーミンはこう続ける。「そのつぎを教えてよ/少しの英語だけがあなたとの/架け橋なら淋しいから」。現地語を知ることでもっと「妹」と話したい。アジアをもっと知りたいと。
戦後の日本人はアジアにどう関わったのか。資源収奪と市場活用というビジネスの論理、観光資源としてだけのツーリズムの視線、結局は自国を守るためだけの安全保障という軍事・政治のフレームワーク……それだけなのか。もう一つ別の視点があるべきだし、ユーミンが教えてほしい「そのつぎ」とはそういうことなのではないか。
あらためて首相の空疎な言葉を聞くハメになった、70年目の「終戦記念日」。そんなものに耳を傾けるより、私は「スラバヤ通りの妹」に寄り添う、ユーミンの言葉を聞いていたいと思うのだ。
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Author: thinmustache(a.k.a. hiropon)
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