『愛のコリーダ』は毀誉褒貶の激しい作品だったので、出演したことで、一つ烙印を押された感はありました。でも僕はそういう傷痕は大事にしたい。何の傷もなくつるっとしているのはつまらないからね、
地震被害を受ける前の熊本県で撮影された短編映画「うつくしいひと」のチャリティー上映会が17日、東京・有楽町マリオンであった。熊本出身の行定勲監督や出演者らがトークショーを開き、募金箱を手に来場者に支援を呼びかけた。
引用:熊本の美しさ感じて 映画「うつくしいひと」上映会:朝日新聞デジタル
まさにこの有楽町マリオンの現場に私はいた。朝日のキャンペーンに応募したら試写券が当たった。「橋本愛」見たさ、会いたさで試写会場まで出かけた。
はっきり言って映画はたいしたことはない。熊本観光キャンペーンのPR映画の域はかろうじて脱しているが、ストーリーはありふれたもの。地震と復興というタイミングがなかったら、豪華出演陣ではあるものの、ほぼ埋もれた短編だったろう。
ただ、上映後のトークショーはよかった。15mの至近距離で見聞きする、実物の橋本愛は、これまでのどの映画、どのドラマ以上に美しかった。20歳とは思えぬほど、しっかりと何かを見据えた発言をしていた。プロフェッショナルな佇まいを感じた。
発災のときは他の映画の撮影で徹夜でスタジオにいたらしい。ワンカット撮影を終えるたびに実家に電話し、家族が避難所へ入るまでをフォローしたというエピソードは、迫真に迫るものだった。
「撮影が徹夜だったのはよかったかも。ずっと起きていることができたから。ただ、それを終えて自宅に戻ってベッドで休むときに急に不安になりました。私が寝ている間に実家に何かあったら大変だと思って、枕元に最大音量にセットした携帯電話を置いて寝ました」
2011年の東日本大震災のとき、宮城県の実家のことを考えた私と、それは相通じる体験だ。ただあのときは電話さえ通じなかったのだけれど……。
同じ映画に出演している高良健吾の存在感も際立っていた。なんかこの人、街をふつうに歩いていたら、100人中100人が振り返るほどの、オーラがある。
トークショー終了後、マリオンの会場では監督や出演者らによる募金活動が行われたが、残念ながら橋本愛はスケジュールが立て込んでいて不参加。間近に接する機会だったのに、と思いつつ、私は1,000円を募金箱に入れて、その場を立ち去ったのだった。
1970年代の独裁政権下のポルトガルで苦難の生涯を送った本の著者を「アメリカン・ハッスル」のJ・ヒューストン、さらには、M・ロラン、B・ガンツ、C・ランプリングらが豪華に顔をそろえ、息詰まる演技合戦を披露。重層的でドラマチックな一作に仕上がった。
顔が似ているわけではないが、(N.キッドマン)見ていくうちにケリーに見えてくるから不思議で面白い。あちこちにちりばめられたヒッチコック作品へのオマージュにも思わずニヤリとさせられるだろう
オランダからやって来た戦慄のクライムアクション。本国でベストセラーとなった犯罪小説を映画化した。知らない間に自分の公的IDが流出、テロや犯罪に利用されてしまうという現代的なテーマを扱っており、遠い異国の話と安心できないリアリティを感じさせる。
弱冠16歳で短編監督デビューを飾り、ヌーヴェル・ヴァーグの次世代を担う神童として一躍注目を集め、以後、自らの家族や恋人たちなどを題材に、極私的でミニマルな独自の恋愛映画を数多く発表してきたフランスの孤高の映画作家、ガレル。本作は、今は亡き彼の父の30歳のころの生活をもとに、新たな私的ドラマを構築。
トロント国際映画祭やシッチェス映画祭をはじめ、各国で賞賛られたサスペンスの注目作。ブログ更新のため、俳優とドキュメンタリー作家の2人が世界放浪の旅をしながらカメラを回し続けているという設定で、POV(主観映像)を効果的に使ったサスペンス演出がなされる。
カナダが生んだ現代映画界きっての鬼才クローネンバーグが、映画の都ハリウッドを物語の舞台に据えて、富と名声、欲望と野心に取りつかれたセレブたちが織り成す奇態な生活ぶりを、彼ならではの皮肉と風刺を織り交ぜながら鮮烈に活写。クローネンバーグ版“ハリウッド・バビロン”というべき異色の衝撃作を生み出した。
キム・ギドク監督が製作総指揮など3役を務めたのが本作。北朝鮮から韓国に送り込まれ、疑似家族になったスパイ4人。韓国の政治体制に批判的だが、同じ朝鮮民族としてのアイデンティティーは否定し切ることができず……。
先にまとめておいた、WoWoW放映8月~9月の新作映画リスト。録画は順調に進んでいるが、もちろん全部観られるわけではない。「全部観ないのになぜ録画するのか」という当然の疑問に、私なりの回答は用意しているが、ここでは触れない。
それでも今月は実見しているほうかな。以下、簡単に感想をば。
ヒロインのエミリー・バルドーニは初見の女優だが、完璧に美しすぎて、あまり人気が出ないというタイプか。
★『リベリオン~ワルシャワ大攻防戦~』。1944年夏のワルシャワ蜂起を再現。アンジェイ・ワイダをはじめ戦後ポーランド映画が再三採り上げる記念碑的事件ではあるが、その「実相」を複数の若いカップルたちの運命と共に描く。「大攻防戦」という邦題にはちょっと無理がある。ソビエト赤軍が介入しなかったために、蜂起はナチスによってほぼ一方的に鎮圧されたわけだから。
廃墟と化したワルシャワに現在のワルシャワの街の様子がインポーズされるラストは、ポーランド国民に民族的記憶の共有を求めているようだ。そういう意味ではナショナリズムの映画とも言えなくもない。そうしたイデオロギーの範疇を超えて、人間の問題としてワルシャワ蜂起を描いたワイダの偉大さをあらためて感じる。
★『わたしは生きていける』。「NYから単身イギリスの田舎にやって来たところへ第3次世界大戦が勃発するという緊急事態に観舞われた少女の過酷な運命」──たしかにロンドンが「テロリストの核攻撃を受けて壊滅」となれば大変だ。だが、テロリストと呼ばれるのがどんな勢力なのか、最後までよくわからない。テロリストが水道水に混入させた毒物を、簡単に浄化できる薬剤というのも、すごすぎる。
しかしそんなシチュエーションはどうでもいいのだ。これはシアーシャ・ローナンという人気絶頂の美少女俳優(芝居もうまいよ)を無理やりフューチャーした青春ロードムービーなのだから。結論が見えすぎるので、最後は早送りしちゃったけど。
ローナンはやはり『つぐない』での演技が見事。『ラブリーボーン』や『グランド・ブダペスト・ホテル』も印象に残る。
以下は7月以前の録画を昨日観たものだが、
★『美しい絵の崩壊』は文字通り悲劇的なまでに美しい映画だ。原題は “Two Mothers" 。それぞれ一人息子の母になった幼なじみの女性たち。2つの家族は子どもたちが長じても仲が良く、サーフィンのできる美しい入江を見下ろす、別荘のようなところに暮らしている。夫が大学で演技を教えていたり、妻は画廊を経営していたり、生活の背景には十分な裕福さが窺える。
サーフィンに興じるハイティーンの子どもたちの肉体を眺めながら、「私たちが創造した美しい神々」と二人の母親たちはつぶやくのだが、それはその後の物語の波乱の予兆だ。昔から「第二の母」のように接してきた母の同年の友人を、その息子たちが交換するかのように愛してしまうという設定は、現実にはまずありえない。だが、ナオミ・ワッツとロビン・ライト(私はやっぱり『フォレスト・ガンプ』のジェニー役だな)なればこそ、映画的には成立する。
ひたひたと寄せてくる老いにおののき、若い恋人が自分から離れてしまうことを予感する、鏡の中のナオミ・ワッツは少し怖い。
★『パークランド ケネディ暗殺、真実の4日間』もよかった。ケネディ暗殺直後のダラスの人々を群像劇として描く。瀕死のケネディが運び込まれたパークランド・メモリアル病院における蘇生シーン(結局、ムダだったが)が迫真をもって迫る。ジャクリーン夫人が、銃弾で破砕された夫の血まみれの頭蓋骨の一片を握りしめ、それを医師に手渡したという話は事実だ。
奇しくもこの病院には、ジャック・ルビーに撃たれたリー・ハーヴェイ・オズワルドも2日後に運び込まれることになる。オズワルドの兄や母がこのとき何を考え、何を語ったのかも、私はこの映画で初めて知ることができた。
キャストはいまのアメリカ映画を代表するとも言える重厚な布陣。なかでも、マーシャ・ゲイ・ハーデン/ビリー・ボブ・ソートン/ポール・ジアマッティ/ジェームズ・バッジ・デール/ザック・エロンらが印象に残った。それぞれの個性を瞬間的に引き立たせる演出の手堅さ。
⇒ 『この国の空』荒井晴彦脚本・監督/高井有一原作
二階堂ふみ、長谷川博己、奥田瑛二あたりはちょっと苦手な俳優なのだが、これは今年の邦画のベスト3ぐらいには入りそうな予感がする。
茨木のり子の詩「わたしが一番きれいだったとき」が効果的に使われているという。東京新聞2015/08/13に、その気にさせる映評と荒井氏へのインタビューが掲載されていたのでアーカイブしておく。見に行かねば。
第2次世界大戦中、ナチス親衛隊により、女性・子供を含む600人以上の村民が教会に閉じこめられ火を放たれるなどして、ほぼ全滅したフランスの小さな村「オラドゥール」。その戦後70年を東京新聞8/10夕刊が報じている。戦後、独仏和解が進むなかでも、この村だけはそれを拒み続けてきた。しかし前村長らの努力で、2013年、ドイツ大統領のヨアヒム・ガウクがこの村を訪問、オランド仏大統領と共に、数少ない生き残りの村人と握手を交わした。
虐殺の歴史を記憶するため、破壊された村はそのまま廃墟として保存されている。そのことは何かで読んだか見たかした記憶があるのだが、和解に至るプロセスの詳細については初めて知ることができた。(虐殺の詳細については、Wikipediaを参照)
こうしたナチスによる住民皆殺しは当時のヨーロッパには他にもいくつかあり、それらを、史実に忠実にというよりは象徴的に語ったり、ある種のエピソードとして挿入する映画はいくつもある。
例えば、ロベール・アンリコ監督、ロミー・シュナイダー助演の1975年の映画『追想』がそうだ。映写会の機会を復讐の場に選ぶというそのストーリーは、タランティーノ監督の『イングロリアル・バスターズ』(2009年)でよりダイナミックに継承された。
しかし、これらの映画では無慈悲な虐殺に対する正当な復讐は描かれるものの、復讐者のその後は描かれない。失われた家族や故郷への追想のかたわら、新たな殺人者になった主人公らの心理的葛藤は描かれない。絶対的な悪と絶対的な善がスパイラルに交叉しながら、最終的には映画的カタルシスを導くという、いわば戦争映画の古典的ともいえる手法に終始している。
終戦後何年か経って戦犯として法廷に引きずりだされた、かつての少年の年上の愛人は、空爆を受けた強制収容所を職務に忠実なあまり解錠せず、結果として囚人の大量焼死をもたらした罪で訴追されていた。
そのことを主人公=かつての少年は知らなかった。そして最初は、同じドイツ人としてその罪をどうしても赦すことができない。しかし、やがて彼女が刑務所で自死すると、その遺志を継ごうと動き始める。女囚が貯めたわずかばかりのお金を被害者の遺族に渡すために渡米するが、遺族とは完璧には和解できない。かつての愛人の罪に同伴する主人公の謝罪は、中途半端なまま中空に浮いている。
だが、その葛藤こそが、虐殺の責任を問う意識が、和解へと導かれる一つの過程なのだ。
戦争犯罪と和解。それには半世紀いやそれ以上の時がかかる。和解のプロセスは尋常な努力ではないだろう。しかし、それを放棄したり忘却したとき、それはあらたな憎悪として蘇ってしまうだろう。
ロザムンド・パイク⇒
『ゴーン・ガール』から
以下、録画候補リスト
人気作家・瀬戸内寂聴が自らの実体験をもとに書き綴り、第2回女流文学賞を受賞した同名短編小説を、「海炭市叙景」の熊切和嘉監督が映画化。ヒロインに満島、年上の愛人に小林、そして、かつて一緒に駆け落ちをした経験のある昔の恋人に綾野と、当代きっての人気実力俳優たちが顔をそろえ、息詰まる競演を披露。
昨今何かと論議を呼ぶシェールガスを題材に取り上げつつ、その是非そのものというより、人生にとって本当に大切なものは何か、という普遍的なテーマを観る者各自の胸に問い掛ける秀作に仕上がった。
急旋回の連続の物語の行く末と、第87回アカデミー主演女優賞にノミネートされたパイクの一世一代の熱演ぶりは、ここではとても記述不可能。百聞は一見にしかず。何はなくとも必見!
日本の人気作家・東野圭吾による同名小説は、2009年に日本でも寺尾聰の主演で映画化されたが、本作は韓国映画界による再映画化版で、韓国で100万人近い観客を動員する大ヒットを記録した話題作。
「バートン・フィンク」「オー・ブラザー!」など、コーエン兄弟の常連俳優として知られるタトゥーロが、本作では主演のみならず、監督・脚本も自ら手がけて放った、大人の味わいのラブコメディ。
暑くて暑くてやりきれない。ふと思い立ってKINENOTEで「夏」をタイトルに含む映画を検索してみた。とりあえず、2000年代のもの。けっこうあるな。印象としては季節の中で一番多いんじゃないかと思うのだが、こんどあらためて調べてみよう。
⇒ 映画『ザ・シー・オブ・ツリーズ(原題)』 - シネマトゥデイ:
『ミルク』などのガス・ヴァン・サント監督が、「The Black List 2013」(製作前の優秀脚本)に選出された脚本を映画化。死に場所を求めて青木ヶ原樹海にやって来たアメリカ人男性が、自殺を思いとどまり樹海からの脱出を試みる日本人男性と出会ったことで、人生を見つめ直すさまを描く。『ダラス・バイヤーズクラブ』などのオスカー俳優マシュー・マコノヒーと、『インセプション』などで国際的に活躍する渡辺謙が初めて共演を果たし、『インポッシブル』などのナオミ・ワッツも出演。
第68回カンヌ国際映画祭コンペ部門出品作。国内では2016年全国公開予定。
Author: thinmustache(a.k.a. hiropon)
よしなしごとを書き散らかしております。