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ひろぽんの小石川日乗 2015〜

還暦を迎えたおじさんが、日々の喜怒哀楽をつづるブログ

「子供が片輪になっても原発つくれ!」“下着ドロボー”高木毅を大臣にした父親の汚すぎる原発利権

 敦賀から選出された自民党・衆議院議員「高木毅」。いまや「下着ドロ」(本人は週刊誌報道を否定するが、抗議はしない)の高木として有名になったが、なぜ彼が大臣になれたか。その経緯をLITERAの記事が分析している。背景として、高木毅─高木孝一(父・元敦賀市長)─森茂喜(喜朗の父・元根上町[現・能美市])町長)─森喜朗という石川県の自民党人脈と、彼らの利権母体としての原発ムラの存在があることを指摘している。

 ことの真相はわからない。しかし、さもありなんという話ではある。


⇒ 「子供が片輪になっても原発つくれ!」“下着ドロボー”高木毅を大臣にした父親の汚すぎる原発利権:

 そう考えると、今回の問題は、たんに安倍首相が、“下着ドロボー”の過去をもつ破廉恥政治家を閣僚にしたというだけではない。「金が儲かれば子供が片輪になってもかまわない」などという発言を平気でする父親の原発利権をそっくり引き継ぎ、その原発利権に犯罪をもみ消してもらった、原発利権ズブズブの人物をあろうことか、原発業界にもっとも厳しい監視の目を向けねばならない原発事故担当・復興大臣に据えたということだ。

LITERA/リテラ 2015.10.22


 父親の高木孝一がかつて「将来の子どもがカタワになって生まれてくるかもしれないが、原発を誘致すれば地元は儲かる」という趣旨の発言をしていたことは、3.11以降の反原発の議論のなかで、古証文のようにあらためて検証された話である。ただ、そのボンボン息子がこんな奴だとは、私も今回まで知らなかった。

 自民党の大臣の選出過程なんて昔からみなこんなものなのだけれど、そういって笑い飛ばすには怖ろしすぎるブラックジョークではある。原発事故およびその被災者をなめているとしか思えない。

[ 2015/10/23 17:57 ] politics | TB(-) | CM(0)

日経「東京五輪の迷走 新国立、エンブレムで終わらない」

 エンブレム問題などが、オモシロ可笑しくワイドショーなどで採り上げられるに至って、私はもうこの問題はいい、それ以上に、考えるべき問題はいくつもあると思うようになった。一つは「安保法制」の国会審議。ネットやワイドショーの馬鹿騒ぎは、そうやって国民の不満の“ガス抜き"をしながら、実はオリンピック以上に重要な社会の争点を、あいまいにする機能を、現状では果たしている。昨晩のテレビ番組で宮根誠司がエンブレム問題を得意顔で解説するのを聞いて、あらためてそう思った。


Screenshot 1128

 むろんそうはいっても、オリンピック開催そのものは極度に政治的な意味をもつ国家イベントであることに変わりはないから、その決定・推進過程に、いかに日本の民主主義が活かされているのか、あるいは無視されているのかは、あいかわらず重要な論点ではあることはたしかだ。


 つまり、私が言いたいのは、オリンピックのことを考えるのであれば、これからの関心の方向は、「佐野厄寄せ大師」の個人的振る舞いをあげつらう床屋政談や、「アスリートが可哀想」などという同情論を超えて、オリンピックの政治性や経済性への批判そのものではないのかということだ。これから私たちが持つべきものは、つまりオリンピックを社会科学的に評価する視点なのである。


 そうした議論の材料になるような記事が今朝の日経に掲載されている。

⇒ 東京五輪の迷走 新国立、エンブレムで終わらない:日本経済新聞 2015/9/7 3:30:

 曰く、

 東京五輪の競技場整備を巡る誤算は、国が整備する新国立競技場だけで起きていたわけではない。東京都が整備を担当するスポーツ施設の工事見積額が当初の予算を大きく上回ってしまい、準備局の担当者は費用の圧縮に追われているのだ。

 東京都が臨海部を中心に整備する予定だったスポーツ施設は合計10カ所。しかし、工事見積額が当初の予算の範囲内に収まっているものは1つもないという。

 「工事見積額が当初の予算の範囲内に収まっているものは1つもない」というのは、知りたくなかった恐るべき真実だ。予算オーバーの現実は酷いものだ。

 その象徴が「海の森水上競技場」。そもそもは、東京臨海部の新名所「東京ゲートブリッジ」のたもとに、ボートとカヌーの競技会場として、東京都が69億円で整備する予定だった。

 ところが、「五輪開催が決まってから現地を調査したのだが、観客席を設ける場所の地盤が悪いことがわかった」(準備局の花井徹夫・施設輸送担当部長)という。

 地盤を改良して建設すると、1038億円かかることが判明。費用は当初見込んでいた金額の約15倍にも膨らんでしまう。東京都は、観客席の位置を変えるなど計画を変更したが、それでも491億円。当初計画の約7倍とケタ違いの費用が発生してしまう。

 なんでこんなことになっちゃうんだろう。

 開催地に立候補した時点で、東京都は10施設の整備費を合計1394億円に抑えられると試算していたが、開催決定後は一転。総額が一時、約3倍の4059億円にまで膨れ上がった。現在は海の森水上競技場の計画見直しなどで2281億円に圧縮しているが、それでも当初の1.6倍だ。

 見積もりが膨らんだのは、これまでは「景気回復や震災復興需要に伴う、建設業界の人件費と資材費の上昇が一因」とされてきたが、どうやらそれだけではないらしい。

 大会招致委員会が整備費を記載した立候補ファイルを国際オリンピック委員会(IOC)に提出したのは2013年1月。整備費用は、国内の類似施設をベースに算出していたが、計算したコストは純粋に建物の施工費だけだった。

 建物のコスト以外にも、設計委託費や周辺の敷地整備費用などは当然含まれるべきコストであるのに、それらを除外していたというのだ。かくして東京都の整備計画はいまボロボロ(上図参照)。

 コスト問題だけではない。招致にあたって叫ばれた「コンパクト五輪」のコンセプトも、今ではほとんど詐欺のような状態になっている。

 東京都や国、日本オリンピック委員会(JOC)などは2020年の五輪の開催地に東京が手を挙げたとき、競技施設の大半が東京臨海部を含む都心部の半径8キロ圏内に収まり、ベイエリアの選手村から選手たちが楽にアクセスできる点をアピールしていた。

 もはや東京五輪の招致に携わった国や東京都が訴えた「低コスト」「コンパクト」という強みはかすみつつある。国の新国立競技場も、東京都のスポーツ整備計画も、実現性を十分に考慮しないまま突っ走った構図はうりふたつだ。

 さあ、どうする東京五輪。こうした体たらくが続くのであれば、「返上」論も現実味を帯びてくるのではなかろうか。

[ 2015/09/07 18:07 ] politics | TB(-) | CM(0)

「沖縄ヘイト」の源流

 先日、LITERAに「百田尚樹だけじゃない! 櫻井よし子、八木秀次、チャンネル桜、つくる会…安倍首相のお仲間が沖縄ヘイトに大集結」という記事が載っていて、例えば

「沖縄の皆さんに、いったい日本を選ぶのか、それともチャンコロ、あ、失礼(会場笑)、それとも中国を選ぶのか、どちらかを選んでほしい」

 という加瀬英明(まだ生きてたのか!この親米右翼)の発言に驚愕・失笑したのだが、こうした「沖縄ヘイト」は実は今に始まった話ではなく、明治のころからあったものだ。

 「琉球処分」(1872年から1879年にかけて、旧来琉球諸島の施政を委任してきた中山王府を廃し、県を置いた施策)の過程を勉強しようとある本を読んでいたのだが、こんな文章に遭遇した。

 当時、日本の言論は政府の意図を正当化し、助長する論調が主流だった。1879(明治12)年1月10日付の「朝野新聞」は、琉球を奴隷と見なす蔑称を使って批判した。救国を訴える琉球人を「甚だしいかな。琉奴のわが日本帝国を蔑視するや」と罵倒し、「琉奴討つべし」との論陣を張った。

 廃琉置県直後の1879年4月17日付「かなよみ」新聞は、中国との朝貢関係に頼る琉球を「ばかさは甚だしい極点」と批判し、「頑固固陋の諭し難き」琉球人は「くそをたれた愚犬が飼い主の手をかむのと同じ」と見下した。

『沖縄の自己決定権』琉球新報社・新垣毅編著/高文研 2015年、P.87

 それにしても「くそをたれた愚犬が飼い主の手をかむのと同じ」とは、百田尚樹も真っ青の凄まじいヘイト・スピーチではないか。そうではあるけれど、これこそがまさに日本植民地主義の本音なのだ。それは、日本の安全保障のためにいま再び沖縄は「捨て石」になれと叫ぶ、現代の保守言論人のDNAにも深く刻まれている。


 いま、沖縄問題を考えるうえでは、あらためて「琉球処分」を歴史的に振り返ることが欠かせない。

 琉球は長年、日本と中国という両方の大国に形式上属しつつ、自主性を保ってきた王国だが、これを近代日本は「はっきりせえ」と武力をもって脅すわけだ。琉球処分には、当時の日本と中国(清)だけでなく、欧米列強の思惑がからんでおり、その過程で琉球王国の分割案も浮上する。

 日中交渉の仲介をとりもった米国の元大統領・グラントは「琉球諸島の境を分割し、太平洋に出られる広い海路を与えれば、清は(琉球処分を)承諾するだろう」と述べ、日本政府も1880(明治13)年4月には、中国内地での通商権を得る代わりに宮古・八重山を中国に割譲する案を閣議決定するまでに至った。

 この「改約分島交渉」の詳細、その後の紆余曲折については触れないが、琉球が完全に国際政治の道具、駒として使われたのはたしかだ。この沖縄の「地位」というものは、アジア・太平洋戦争における悲惨な戦い、戦後の米軍支配、その後の日本への返還を経てもなお、本質的に変わりがないのだ。

[ 2015/08/23 15:27 ] politics | TB(-) | CM(0)

朝日新聞「聞く 安全保障法制」3回シリーズ要点メモ

外交・安全保障政策の将来像をどう考えるべきか。国際政治の専門家へのインタビューシリーズ。要点をメモ。

⇒ (聞く 安全保障法制:上)中国の戦略的意図、見極めよ 天児慧・早大現代中国研究所長::

 集団的自衛権の行使は可能性にとどめ、外交上の「カード」として将来に残しておいた方がいい。なぜなら、米国の軍事力はなお中国を大きく上回っており、中国内には根強い「日米同盟脅威論」があるからだ。日本は日米同盟の強化をうたうだけで十分な抑止力を得られるはずだ。日本が同盟強化にとどまらず、米国と組んで集団的自衛権を使う=攻撃する可能性を示せば、中国は必死に軍事力を強化するだろう。それでは、軍拡が軍拡を招く安全保障のジレンマに陥ってしまう。日本は中国の脅威をこれ以上強調すべきではない。

 大切なのは、まず東アジア全体で安全保障の枠組みをつくることだ。日米中の専門家や当局者らが話し合う「安保フォーラム」をつくり、定例化できないか。

 同時に、軍事力だけに頼らない安全保障政策も重要になる。日中は「戦略的政経分離」をめざすべきだ。貿易や人的交流で太いパイプをつくり、政治の緊張が両国関係の不安定化に直結しないようにする考え方だ。他の国も同じ対中戦略をとればいい。

朝日新聞デジタル 2015年8月12日05時00分

⇒ (聞く 安全保障法制:中)「国際紛争と距離」日本の道 美根慶樹・平和外交研究所代表::

 PKOへの参加は日本の国際貢献にとって大きなステップとなったが、半面で、今の法律では隊員や近くにいる人を守るためにしか武器を使えないなど制約もある。今回の法改正で、住民の安全を守る任務遂行や駆けつけ警護、邦人救出などを新たにメニューに加え、武器の使用基準も変える点は評価したい。

 中国はいま、アフリカやアジアへのPKOに積極的に参加している。2001年の要員派遣数は年間100人程度だったが、11年は20倍に増えた。派遣先の国との政治・経済関係も強めている。日本も紛争や内戦が起きやすい途上国にエネルギーや食料の多くを依存しており、紛争の再発防止は重要な課題だ。日本の国連での評価を上げ、発言権を確保するためにも積極的な関与を考えるべきだ。

 とりわけ今後、自衛隊の活動を広げられる可能性があるのは人道問題への対処ではないか。紛争後のインフラ整備や難民対策、地雷除去のほか、紛争中に人道的観点から住民の捜索や救助を自衛隊が担うことも考えられる。

 ただ、今回の法案には問題点も多い。日米両国は97年、防衛協力のための指針(ガイドライン)を見直して日本周辺の有事での米軍支援に対応した。朝鮮半島での有事(戦争)などを意識し、憲法が認める範囲で「自衛の風船」を膨らませてきたとも言えるが、今回の法案はそれをさらに膨らませるものだ。

 まして集団的自衛権による武力の行使や、紛争で戦う他国軍の後方支援は認めるべきではない。武力行使を認める国連決議がないまま、米英が攻撃を開始したイラク戦争のような場合にも自衛隊を送り出すのか。政府は後方支援活動を「現に戦闘が行われていない現場」で行うと説明するが、それは机上の空論だ。他国軍への弾薬提供や輸送は兵站(へいたん)そのもので、国際社会は日本が戦闘に加担したとみなすだろう。

 米国との関係は大切だが、世界中に自衛隊を出す必要はない。国際紛争に関わることを禁じた憲法とともに歩んできた道が日本の「生き様」だ。国民も国際社会もそう評価してきた。今回の安保法制でその生き様を変えるべきではない。

朝日新聞デジタル 2015年8月13日05時00分

⇒ (聞く 安全保障法制:下)善悪二元論でない議論を 篠田英朗・東京外国語大教授::

 今回の法案をめぐっては、国連の集団安全保障への協力は認めるが、米国への集団的自衛権の行使は認められないとか、軍事支援を否定するが非軍事支援は認める、といった議論も目立つ。しかし、対テロ戦争では、集団安全保障と集団的自衛権が連動して発動されたり、開発・人道援助もセットで行われたりするようになってきている。軍事・非軍事で、どちらが正しいかを区別するような考え方は現実的でない。

 その視点に立つと、「戦争法案か平和法案か」といったスローガンが飛び交う状況を心配している。法案の成立がすぐに戦争に結びついたり、逆に戦争を避けることにつながったりするわけではないからだ。こうした善悪二元論は排し、法案の論点を考えたい。

 まず日米同盟に関しては、日本を防衛する米軍を支援すべきだという議論は常識的なものだ。これを全否定すれば、65年続いた日米安保体制を揺るがしかねない。他方で、安倍政権が集団的自衛権の行使例として示したホルムズ海峡の機雷除去の例も含め、国際法からみて自衛権を使う必要性があるか、武力の行使としてバランス(均衡性)を欠いていないか、といった議論は深まっていない。

 問題は法案の書きぶりがあいまいなことだ。私は集団的自衛権の行使がすべて違憲ではないと考えるが、武力行使に対する歯止めを明確にし、日本が国際的に実現したい目標がはっきりわかるようにする必要がある。その点で法案の内容や政府の解釈に加え、国会の質疑も緻密(ちみつ)とは言えない。

 今回の法案も含め、日本の外交政策の構造的な弱さは、日米同盟と国連の二つの枠組みしか存在していないことだ。米国の要請に応えるだけでは、理念なき「従属」に陥る。国連の活動にも限界がある。

朝日新聞デジタル 2015年8月14日05時00分

[ 2015/08/14 08:55 ] politics | TB(-) | CM(0)

アメリカ人も原爆投下を誤りと

 読売新聞ってのは、政府の代弁とスポーツ面ばかりで読むところのない新聞だが、たまには面白い記事もある。

 今朝、たまたまファミレスで無料配布されていた朝刊を開くと、広島原爆投下70年(ちなみに、投下ってのはなんか隔靴搔痒な言い方だな。ストレートに原爆攻撃あるいは原爆被害というべきじゃなかろうか)ということで、『原子爆弾の誕生』を書いた米国のピューリッツァー賞作家リチャード・ローズ氏(78歳)のインタビューを掲載していた。

 こんな話に興味が惹かれた。

 原爆投下の是非は世代間で異なります。米国の学校では模擬裁判の授業がありますが、トルーマン大統領の原爆投下の決断を議論すると、多くの場合は「弾劾されるべきだ」との結果になります。これが今の若い世代の見方でしょう。

 70年前は違いました。ジェームズ・バーンズ国務長官は、大統領に原爆投下をこう迫ったのです。「戦争を終結させ、米兵の命を救う武器を持ちながら使わない場合は、弾劾裁判で責任を問われるだろう」

 トルーマンは当時、原爆を使用しなければ弾劾され得る立場にありました。原爆投下の決断に、こうした状況が影響したのは間違いありません。

 米国の学校教育における模擬裁判の話も、武器を使わなければ大統領が(議会から?)弾劾されるという話も、共に米国という国の“くにがら"を感じさせる。

 ちなみに、昨日の東京新聞夕刊には、

⇒ 東京新聞:米世論調査 44歳以下は「原爆投下は誤り」多数::

米国民を対象とした日本への原爆投下に関する世論調査で、四十四歳以下の年齢層で「誤った判断だった」と答えた人が「正しい判断」と回答した人より多いという結果が出た。四十五歳以上は「正しい」が圧倒的で、世代による意識の差が鮮明になった。

2015年8月5日 夕刊

 という記事が掲載されていた。原爆攻撃直後の1945年8月のギャラップ調査では、それを支持する回答が85%に達していた。アメリカの世論も70年経てば変わるということだろう。

[ 2015/08/06 07:11 ] politics | TB(-) | CM(0)

ジョン・ダワー氏健在!

 久しぶりのジョン・ダワー氏へのインタビューだ。著作の画像も添えておこう。

⇒ 日本が誇るソフトパワーとは ジョン・ダワー氏に聞く:朝日新聞デジタル:
敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人 転換期の日本へ 「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か (NHK出版新書) 忘却のしかた、記憶のしかた――日本・アメリカ・戦争容赦なき戦争―太平洋戦争における人種差別 (平凡社ライブラリー)

 ――現政権が進める安保法制で、何が変わるでしょうか。
 「日本のソフトパワーが試練にさらされています。集団的自衛権の行使に踏み込み、日本を『普通の国』にするというのが保守政治家らの考えですが、普通とは何を指すのか、私には分かりません。国際的な平和維持に貢献するといいつつ、念頭にあるのは米軍とのさらなる協力でしょう。米国は軍事政策が圧倒的な影響力を持っている特殊な国であり、核兵器も持っている。そんな国の軍隊と密接につながるのが、果たして普通なのでしょうか」
 ――戦後の日本外交は、米国との関係を軸にしてきました。
 「日本の外交防衛政策を知りたければ、東京でなくワシントンを見ろとよく言われます。環太平洋経済連携協定(TPP)への参加しかり、アジアインフラ投資銀行(AIIB)加盟についての判断しかり。核戦略を含め、米国の政策を何でも支持するのが日本政府です。その意味で、戦後日本の姿は、いわば『従属的独立』だと考えます。独立はしているものの、決して米国と対等ではない」
 「過去を振り返れば、安倍晋三首相がよく引き合いに出す、祖父の岸信介首相が思い浮かびます。岸首相は確かに有能な政治家ではありましたが、従属的な日米関係を固定化する土台を作った人だと私は考えています」
 「同様に、孫の安倍首相が進める安全保障政策や憲法改正によって、日本が対米自立を高めることはないと私は思います。逆に、ますます日本は米国に従属するようになる。その意味で、安倍首相をナショナリストと呼ぶことには矛盾を感じます」
 ――現在のアジア情勢を見れば、米軍とのさらなる協力が不可欠だという意見もあります。
 「尖閣諸島や南シナ海をめぐる中国の振る舞いに緊張が高まっている今、アジアにおける安全保障政策は確かに難題です。民主党の鳩山政権は『東アジア共同体』構想を唱えましたが、それに見合う力量はなく、米国によって完全につぶされました」
 「だからといって、米軍と一体化するのが最善とは思えません。冷戦後の米国は、世界のどんな地域でも米軍が優位に立ち続けるべきだと考えています。中国近海を含んだすべての沿岸海域を米国が管理するという考えです。これを米国は防衛と呼び、中国は挑発と見なす。この米中のパワーゲームに日本が取り込まれています。ここから抜け出すのは難しいですが、日本のソフトパワーによって解決策を見いだすべきです」

ニューヨーク支局長・真鍋弘樹2015年8月4日10時19分

[ 2015/08/06 02:09 ] politics | TB(-) | CM(0)

ヨボヨボとでもいいから、高校生に付いていくこと

「とりま廃案!」「それなそれな!」「安倍晋三がいちばん脅威!」「マジ安倍いらない!」

戦争法案に反対する渋谷・高校生デモ - 2015.8.2(Youtube 21分

 高校生などの10代が中心となって戦争法案に反対するために立ち上げられたグループ・T−ns SOWL(Teens stand up to oppose war law)の8/2渋谷デモのコールだそうだ。最初、「とりま」「それな」の意味がわからなかったが、「とりあえず」「その通り」ぐらいの意味の若者言葉らしい、まったく...(笑)。

 高校生の政治活動という言葉を聞くと、それだけでノスタルジーが蘇る。ただ、70年代の高校生はこんなに楽しそうではなかった。制服なんて着ていかなかった。女の子もこんなにいなかった。時代は変わった。けれども、高校生が立ちあがらなくて、いったい誰が立ちあがるんか。

「とりま」、大切なのは彼らを支持すること、彼らを卑劣な攻撃から守ること、彼らの後からヨボヨボとでもいいから付いていくこと。

150803TK高校生デモ
[ 2015/08/03 06:48 ] politics | TB(-) | CM(0)

戦争エンターティンメントの戦後史

 8.15が近づき、例によってテレビ・新聞で「終戦特集」が組まれる。今年の夏は敗戦70年ということで、いろいろと趣向を凝らす社もあるようだ。映画「永遠の0」が地上波で初放映されたというのも話題だ。私は百田尚樹の原作小説も、映画もテレビドラマも見ていない。それは、前に書いたように、たんに百田という男を蛇蝎のように毛嫌いしているからにすぎない。


 したがって百田が零戦をどう描いたかの詳細は知らないが、かといって零戦を含む旧軍の戦闘機、あるいは特攻について私の知識がないわけではない。今の人には想像つきにくいかもしれないが、私のような昭和30年生代まれの子供たちは、いま以上にマンガ漬けで、小学生が回し読むマンガ誌(子供たちが買ってもらえるマンガ週刊誌はせいぜい1種類だから、それを交換しながらその週発売の全誌に目を通すわけだ)にはしょっちゅう戦記物が登場していた。


 例えば「紫電改のタカ」(ちばてつや:1963-1965「週刊少年マガジン」連載)。「死と隣り合わせの戦争の中で生きる若者の苦痛や苦悩を描き出し」(Wikipedia)ているらしいが、私が覚えているのはもっぱら戦闘機乗りの「カッコヨサ」や、戦闘機を操りながら次々に編み出される戦闘手法の巧拙といった技術論ばかりである。“撃墜王”の戦法はクラスの男の子みんなが詳細に知っていたし、当時、プラモデルを作るとすれば、まず筆頭にあがったのが旧軍の戦闘機や艦船だったのだ。


 つまり、日本のサブカルチャー領域では戦後20年も経つと、「戦争」は売れ線の娯楽アイテムとして大手を振って消費されていたのである。もちろん送り手の側には戦争を描くことで、平和を訴えるという意識が皆無だったわけではないだろう。だが、それ以上に、戦争は古今東西最高のエンターティンメントでもあるのだから、売らないわけにはいかなかったのだ。


 ここで言いたいのは、我々の世代は戦争の商品化(キャラクター化ともいう)には、子供のころからすでに「免疫」ができているということである。商品化であるがゆえに、真実ではない、少なくもマンガに描かれるのは多様な真実の一部を表現するにすぎないという“決まり事”も、少年たちにとっては暗黙の了解であった。


 もちろんそうした了解は、マンガ以外の書物によって知識を補充されることによって、より客観性の高いものになっていく。私の場合は、高校生以降の読書がそれにあたる。ただのミリタリー・オタクにならずに済んだのも、読書によって政治史、社会史として戦争をとらえる視点ができたからだ。


 むろん政治のありようの一つとしての戦争であるから、戦史を描くにしても、そこにはさまざまな政治イデオロギーが陰を落とすのは避けられないことだ。研究書といえども、すべてが科学的な客観性を担保しているとは限らない。それも含めての読書体験である。


 戦争の商品化のメカニズムや、そこにすり込まれるイデオロギーを読み解く作業はいまでも必要だ。それを抜きにして、

「百田先生の小説を読んで、初めて戦争の真実を知りました」

 などと感動している2015年現在の若者がいるとすれば、実にナイーブというしかない。


 百田の小説に感動した、という声は私の周りにもある。この前は、「百田の本で太平洋戦争に興味をもち、今は山岡荘八を読んでいる」と語る40歳前後の人に飲み屋で会って、私は溜息をつくしかなかった。百田→山岡ラインだけで戦争を理解するのはかなり無理があると思うのだが、まあとっかかりだから仕方がない。


 百田を読んで特攻の悲惨さを、あるいはその「美学」を理解したつもりになっている人がいるとすれば、その後には以下の文章を読んでみてほしい。戦争ロマンチシズムからの一種の“解毒剤”の作用を果たすはずだ。


「特攻隊の編制は、形式的には志願で始まったが、間接的強制、そして実質的な命令に進んだ」

「特攻はあの戦争の美談ではなく、残虐な自爆強制の記録である」

「人間を物体としての兵器と化した軍部当事者の非人間性は、日本軍の名誉ではなく、汚辱だと思わざるを得ない」

「当時、政府もマスコミも『鬼畜米英』と言っていたが、玉砕、特攻こそ陸海軍最高首脳と幕僚たちの、前線の将兵に対する鬼畜の行為であった」

 だれか左翼の学者が書いた文章ではない。

 憲法改正を唱える保守派言論人を代表する、読売新聞グループ主筆の渡邉恒雄氏が、2006年10月号の『中央公論』に寄せた文章だ。読売グループは当時、総力をあげて太平洋戦争の過程を検証するプロジェクトに取り組んでおり、その成果は『検証 戦争責任(上下)』(中央公論新社、2006年)にまとめられた。ナベツネの論文はそのモチーフを紹介したものである(Webでも特集が組まれている。


 特攻戦術の導入を「鬼畜」の所業と呼ぶのは、戦争を陸軍二等兵として経験した人ならではの感情移入であるかもしれない。だが同時にそれは、客観的な歴史検証を経て私たち戦後の日本人がたどり着いた、一定の事実認識の表明でもある。


 百田の小説が、特攻を「鬼畜」のように描いているか描いていないか、それは知らない。貴重な時間を割いて、それを調べるつもりもない。ただ、もし百田の小説が、戦後70年、何度となくコピーされてきた凡百の“子供向け”戦争エンターティンメント作品以上の社会的価値をもち、クソも味噌も一緒にして結局は特攻の精神を美化すること以上の有効な思考作用を私たちにもたらしている、と評価する人がいるなら、ぜひご一報いただきたいものである。


# タイトルは釣りみたいだったな。そこまで今の私に書くことはできない。それでもそういう研究がいまあらためて必要だと思う、私の理由を以下述べたまでである。


# 最近、知覧特攻平和会館(私も一度行ったことがある)をもつ鹿児島県南九州市が、アウシュビッツ強制収容所跡地のあるポーランドのオシフィエンチム市との友好交流協定を、市民などの反対で諦めたという報道があった。

「特攻とユダヤ人虐殺が同一視されかねない」のが反対論の趣旨だというが、上記のナベツネの文章を読めば、特攻とユダヤ人虐殺は「非人間的」な「鬼畜」の所業という意味では同一とみなすこともできるのだ。両者を共に「人類の負の遺産」として捉えるからこそ、二つの市の接点が生まれる。そういう視点がすっぽり抜け落ちた特攻展示は私には、いつまで経っても「永遠のゼロ」のまま、つまり空虚なものに思えるのである。

[ 2015/08/02 04:28 ] politics | TB(-) | CM(0)

現代における「転向のススメ」

 安保法制反対をめぐる市民の行動に怖れをなしてか、政権党やネトウヨはもとより、よくわからん輩からの、闘う人々への誹謗中傷攻撃が高まっている。「#SEALDs の皆さんへ。就職できなくて #ふるえる」と題した福岡県行橋市の「小坪」っていう市議のブログが話題だ。(リンクはいちおう貼っておくけど、人相の悪いにーちゃんが薄ら笑いしている写真が出てくるから、はっきり言ってキモいよ。)

 私は勇気を出してちょっと読んでみたが、ひでえもんだ。要は「政治的なデモなんてやっていると、満足に就職もできなくて、あんた困るよ」という、田舎の母ちゃんみたいなグチを延々と書きつのっているだけ。その職業観や企業観、いや社会観や人生観までもが、もう古すぎて、ついていけない。さらに輪をかけて文章がめちゃくちゃで、この問題を伝えるLITERAの記者さえ「文章が日本語の体をなしていないので長々と引用することはしない」と困惑気味だ(笑)。


 SEALDsで活動している学生の親が心配して言うのならまだわかるが、なんでオマエが言うの? 

 前記のLITERAの記事によれば、この市議は自民党の「言論統制サークル=文芸懇」の木原稔とつながっているという話。総督のおぼえをよくしようと、安倍のケツのアナをなめている男の、さらにその●●をなめましょうと手を挙げている小粒な成り上がりが、「小坪」ってわけだ。


 むろん、この手の話ってのは戦前からあるだろう。要は特高警察が獄中の「主義者」に向かって放つ「故郷の両親は泣いているぞ」っていう「転向のススメ」。

 その背景には日本社会の同調圧力、革命運動弾圧の意志、天皇制の呪縛、まあいろいろあるわけだ。中野重治なんかそれを文学にまで高めたから偉いもんだ。

 ちなみに人に思想的転向を迫るのに、真っ向から理論闘争をしかけないで、家族や世間体、就職や出世といった社会慣習、社会常識を持ち出すのは、一言でいえば、日本人が近代的な意味での「個」として確立していないからじゃないかと思う。

 よくわからないが、かつての「白バラ」などナチスへの抵抗者たち、あるいは天安門デモに参加した中国の学生たちにも、こういう情に訴える形式の転向強要はあったんだろうか。すごく日本的なやりかたのような気もするんだが。


 こうした日本的転向のススメは形を変えて今もあり、近年強まっているような気がしてならない。


 最近も「うちのおじさんが戦前共産党で特高警察につかまって親戚じゅうえらい迷惑したそうだよ」みたいな話をトクトクと語るツィートをみかけた。このツィーター(私の知り合いだけに辛いものがある)は「一時の気の迷いで中核派や民青の活動家とつるんで、一生公安にマークされて苦労したらええねん」とSEALDSの学生たちを突き放す。学生たちにしてみれば、「おっさん、余計なお世話だぜ」ってもんだろう。SEALDsが中核や民青と密接なかかわりがあるという陰謀論を振りまく時点でもうアレなんだが(俺は関係あったって、別にいいんじゃない、という立場だけど)、発想が「小坪」並みの奴はどこにでもいるってことだ。


 この手のやからは在特会のデモ参加者に対してはけっしてこんなこと言わないから、要はただのcommie-hater(アカ嫌い)なんだろう。こういう人とはあまり生産的な話ができない。あるいはたんに「特高」とか「中国人民共和国公安部」とか、「チェーカー」とか「ゲシュタポ」とか、喜々として人の思想を統制する国家機関に萌えるタイプなのかもしれないが、ここまで至れば話は別次元だ。


 それにしてもたんに政府の政策に反対してデモしただけで、ここまで言われるかね。今は、戦前と同じ時代なのかね。


【追記】

2015/07/30の朝日にこんな関連記事:

⇒ デモに参加すると就職に不利? 「人生詰む」飛び交う:朝日新聞デジタル:

 衆院の安保審議が大詰めを迎えた14日以降、「就職や結婚に響く可能性」などという大学生のデモ参加をめぐるツイートが次々と投稿された。「デモに行くだけで、確実に人生詰みますよ」「就職に不利益が…」。16日にツイッターに投稿されたつぶやきは約3千回もリツイートされた。

 ここでいう「就職」てなんだろうね。そりゃ軍需産業とか財界中枢企業では、今でもこっそり思想調査とかしてそうだけど、そんなとこばかりが企業じゃないんでね。いま立ちあがっている学生はそもそも「社畜」なんぞになろうとはしてないよ。SEALDsを見ていると、社会起業家としてのコミュニケーション力やインテグレーション力抜群の子たちが多そう。それにしても、この記事を欧米に配信したら不思議がられるだろうな。日本の世間ってなんて狭いの、と。

[ 2015/07/29 06:12 ] politics | TB(-) | CM(0)

審議するほど「違憲」明確に 長谷部恭男氏:東京新聞

 今朝(2015/07/28)の東京新聞は読みでがあった。2面には安保法案で憲法論争を提起した長谷部恭男早大教授へのインタビューと論点解説(PDFでアーカイブ)を掲載。
 氏は「日本に影響する軍事的な脅威やテロの危険が高まっているとして、法整備を進めているが」という記者の質問に、
 仮にそうだとしても、おかしい。米軍支援のために自衛隊を世界中に派遣すれば、日本防衛の資源を地球全体に拡散させてしまう。サッカーでいえば、自陣ゴールが危ない時に守備陣をフィールド全体に拡散させるようなものだ。
 と、サッカーの比喩で答えている。安倍首相の「隣家の火事」の比喩よりはるかにわかりやすい。

 こう書くと、長谷部氏は憲法が専門で、国際安全保障のことはわからないのではとイチャモンをつける半可通がきっと出てくるのだが、例えば内閣官房副長官補(安全保障・危機管理担当)まで勤めた元防衛官僚の柳澤協二氏も、今回の安保法制についての反対理由の一つに、長谷部氏と同様の問題を挙げている(『亡国の集団的自衛権』(集英社新書))。

 個別的自衛権の確立と防衛設備の近代化を、日本国憲法の枠内で営々と積み重ねてきた元防衛官僚から見ても、いや、そういう職務に携わった人だからこそ、安倍自民党の集団的自衛権の拡大解釈は現実にそぐわないどころか、現実をより悪化させるものにみえるのだ。

 安保法制に関連しては、3面で「海外識者の眼」という連載コラムが一昨日から始まっていた。今日は、韓国戦略問題研究所のムン・ソンムク氏。
 安保法案は北の核・ミサイル問題の根本的解決策ではない。日本が韓国、中国と信頼を回復し、それぞれの二国間関係を対立から協力へと変えてこそ、北朝鮮を孤立化させることができ、北朝鮮に対する抑止力を高められるはず。
 という部分に注目。東アジア安全保障の観点からすれば、米国以上に、中・韓との協調を失したままの北朝鮮対応はありえないのは自明のことだが、この問題が自民党からはまったく提起されていない。安保法制論議は、日本の外交下手をあらためて浮き彫りにする結果となっている。

 福島原発関連では、4面「庭の汚染土と暮らす 福島市渡利地区住民の怒り」というルポや、富岡町出身の企業コンサルタント・矢内世夫氏による、避難指示区域からの避難者162人のアンケートと「原発被害者生活支援法」制定の運動に関する特報面の記事は重要だ。
 安保も原発もじっくり勉強したいこと、すぐにも動き出したいことがたくさんあるのに、私は今、猛暑のなかやむにやまれぬ仕事に追われていて、身動きがとれない(自己責任ともいうけれど=笑)。
[ 2015/07/28 20:37 ] politics | TB(-) | CM(0)
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